対照的な面もある2人のマンガ家・・・
ちばは、代表作の1つ『あしたのジョー』をはじめとして多作で、近時まで作品連載がありました。
一方、つげはシュールな内容の短編『ねじ式』などマニアックなファンも多いものの、寡作。実は、1987年発表の作品を最後に絶筆(休筆)したまま亡くなった〝奇才〟でもあります。
(注)この記事校了後の2026年10月27日に、ちばてつや氏の逝去が報道されました。ご冥福をお祈りいたします。
ともに若き10代でマンガ家デビュー。ちばは学齢期の大半をすみだの地で過ごし、両国の日大一高を卒業。また、つげは20代の時期の多くを錦糸町にあったアパートで暮らしました。年齢も近い2人、いずれもすみだとの関わりが結構深いのです。
つげは、6歳から葛飾区の立石エリアで暮らしました。太平洋戦争の戦中戦後の混乱期で、小学校卒業後進学はせずにメッキ工等の職を転々。対人恐怖症の彼は、1人で進められる仕事としてマンガ家を目指します。
雑誌投稿等を経て作品採用も軌道に乗り出したため、独り立ちして転居した先が錦糸町のアパート。1957年のことでした。以来、他所に一時転出した時期はあるものの、1966年まで暮らしました。
様変わりした跡地
各界の表現者からつげへ寄せるエッセイ等『つげ義春賛江 偏愛エッセイ・評論集』(双葉社刊)。その中の『斉藤アパートの頃』(石黒昇)から、住まいの名が特定できます。~「三畳間の部屋がずらっと並んだ木造二階建てで、まさに下駄箱のようなアパートだった」ようです。
つげが暮らしたこのアパート、今はどうなっているのでしょうか。まずは今昔の住宅地図で見比べてみましょう。
▲昔の地図上に「アパート(斉藤)」が確認できます。道路を挟んで西側のブロックは「大横川」に面しています。今の地図では、埋め立てられて「大横川親水公園」になっているのが分かります。後述する「法恩寺橋」も、すぐ近くです。
▲かつてのアパート建物は跡形もなく、マンション敷地の一部(駐車場など)になっているようです。昔の地図の時点からでも約65年。時の経過をつくづく感じます。(この写真は、マンション敷地外から撮影しています)。
初めて自活した錦糸町の地。マンガ家としての地位を確立した後、(昔を懐かしむ気持ちもあってか)いろいろな作品で、当時のアパート生活をベースにしたシーンが描かれています。
▲[引用元]『つげ義春コレクション』(ちくま文庫)。以下、同引用先のシーンは「[引用元]同前」と表記します。『下宿の頃』(1973年)のワンシーン。三畳間の室内の様子が分かります。つげの部屋を訪ねている後ろ姿の人物は、当時のマンガ家仲間の遠藤政治(その後、アニメ監督・演出家に転身)です。
愛用した喫茶店も消滅
もともと多作ではなかったつげ。[勤勉とは程遠く、金がなくなると当座必要な金額分の原稿を描いて、それがあるうちは次の仕事をしない。貯蓄の概念がまったくない生活だった]~先出『斉藤アパートの頃』でも、こんな指摘をされています。
アパート(下宿)は二食付でしたが、家賃も滞納がちでそのうち食事抜きとなるありさま。一方で、近所の喫茶店に足しげく通います。
つげは自著『自伝的エッセイ』(筑摩書房刊)内の『苦節十年記』で、こう回想しています。~「近所に「ブルボン」という小さな喫茶店があって、店主の好みでクラシック音楽を流していた。曲を聴きに通っているうちにツケが利くようになり、入り浸るようになった」。
当時のアパートから東側に数分歩いた場所ですが、こちらも今昔の住宅地図で見比べてみましょう。
▲昔の地図上に「喫茶 ぶるぼん」が確認できます。つげの回想等では「ブルボン」ですが、昔の地図や(スペースの関係で添付しませんが)かつての写真を見ると、ひらがな表記だったようです。
▲家賃滞納するほど困窮していたのに、喫茶店に日参(ツケでしたが・・・)。現地にかつての喫茶店等の建物は跡形もなく、マンションが建っています。
先出『斉藤アパートの頃』によると、つげは[この喫茶店のウェイトレスに好かれ、客が残したサービスのピーナツを次々にもらって空腹の足しになった]旨を得意げに話していたそうです。
▲[引用元]同前。『池袋百点会』(1984年)の一部シーン。店名は「ランボウ」となっています。ツケのことを指摘されるくだりは、つげの実体験なのでしょう。
近くで、ひと休み
「喫茶 ぶるぼん」があったエリアの近くで、ひと休みしましょう。「蔵前橋通り」と「四ツ目通り」を越えた東北側の一角にある「COFFEE PLACE Taihei-cho」へ。
▲1階に各店舗が入る、少し古めのマンションの一角にあります。2023年4月のオープンです。金曜・土曜・日曜・祝日の限定営業。入口ドアに、当月のローテーション表が貼り出されていました。
▲東駒形4丁目「横川公園」のすぐ南側にある「COFFEE STAND koenmae」(販売専門店)の2号店。4人の実力バリスタが4ブランドを展開する1号店の味を、店で飲んで楽しむことができます。店内は、シンプルでおしゃれな空間です。
▲エスプレッソ(機械抽出)タイプの中から「アメリカーノ」(ホット850円)を選びました。エスプレッソタイプは全部ダブルショットとのことで、ボリュームたっぷり! 店内に流れるBGMととともに、心がほぐれていきました。
橋からの眺めも様変わり!
リフレッシュできたので、さんぽを続けます。蔵前橋通りを西側にしばらく歩き、「法恩寺」の参道を過ぎると「法恩寺橋」に到着。橋の欄干越しに南側・大横川親水公園を眺めると、今の光景はこんな感じです。
▲実は、この連載【第22回】の中でもほぼ同じアングルが登場。写真下部が欄干で、写真中央左端部の青色ネットフェンスの下がかつての大横川の護岸です。護岸上部の自走式立体駐車場の辺りには、かつて大きなパネル工場がありました。
上記の写真と同じアングルの、かつての光景はどうだったのでしょうか? 以下の画像とキャプションを、【第22回】の中から転載します。
▲「東京人」(都市出版刊、2024年6月号、31ページ)から引用。上の写真(1969年頃)と下のマンガ(1959年頃)に10年ほど時差はあるようですが、光景はほぼ一致。当時の大横川(運河)沿いの工場や川面に浮かぶ木材の様子など、つげのデッサン力がうかがえます。
この工場は、つげの回想によると使用済の木製電柱を切って板状に加工していた(コンクリートを流し込む型枠材として再利用する)そうです。
先出のつげ作品『下宿の頃』のこんなシーンにも、かつての大横川沿いの様子が描かれています。
▲[引用元]同前。先出の遠藤政治と思しき「円堂氏」が、つげ(「津部氏」)のアパートを訪ねてくるシーン。人物の背景にご注目ください。
あの〝名作〟に影響を与えたかもしれない施設とは?
そして、かつての大横川沿いを少し北上。つげのアパートからもさほど遠くない場所にその昔あったのが、こんな工場でした。
▲戦前の「鈴木製飴工場(ささや)」の写真(引用元=Facabookの投稿「Sasaya Cafe すみだパークギャラリーささや」2012年3月26日)。この連載【第30回】で立ち寄った「SASAYA CAFE」(ささやカフェ)の店内にも、この写真が展示されていました。
▲戦前の飴工場の写真と近いアングルの、今の姿。「SASAYA CAFE」があるのは、写真の左端・とんがり屋根の白い建物2棟の一角。同建物は、戦前の古写真と同じような外観。戦災を乗り越えて、今日まで残存したように見えます。
一方、つげの名作(シュールで衝撃的な内容)といわれる『ねじ式』(1968年)には、こんなシーンが登場します。
▲[引用元]同前。主人公の青年(少年)「ぼく」が、怪我をしたため医者を探してあちこちをさまよう中、道端で金太郎飴を売る老婆と遭遇。その背後、老婆の所有するビルとして描かれたシーンです。どうして、溶鉱炉のような建物が飴屋のビルなのか。
以下は、筆者独自の見解です。
つげの錦糸町での生活は、先出作品『下宿の頃』『池袋百点会』のほかに、『隣りの女』(1985年)でも色濃く反映され描かれています。そんな錦糸町時代に、「ささや」の巨大な飴工場のかつての写真を目にして、心に深く刻まれたのではないでしょうか・・・。
さんぽのシメは、「大衆食堂」で
今日のさんぽのシメは、錦糸町時代のつげ義春に思いを致しながら、とても大衆的に。錦糸町駅の北側エリアの一角にある「錦糸町小町食堂」へ、とても早い時間帯(15時前!)にやって来ました。
▲運営会社のサイトで「24時間年中無休の陳列食堂!」とアピール。錦糸町のほか、新川・幡ヶ谷・御徒町・西新宿、都内で計5店を展開しています。
▲店内は、今風で飾り気のない機能的な雰囲気です。
▲奥には、(スーパーの総菜コーナーも顔負けの)多数のおかず群が。定番60品目以上に加えて季節ごとのメニューも。好きな品を組み合わせて作る自分だけのメニューは、何と100万通りもの組み合わせが可能なのだそう。
▲筆者のチョイス。(上段左から)「冷奴」「マカロニサラダ」「ハーフハンバーグ」「玉子焼きミニ」、(下段左から)「栗ご飯(中サイズ)」「豚汁」。これで合計1,130円です。
▲お酒は、「ホッピーセット」(490円)に。
好きなおかずをチョイスできる。そんな大衆食堂は、今でも見かけることがあります。しかし、これだけの品目があって、なおかつ24時間(年中無休)営業というのは、とても驚きでした。
今日のさんぽ を振り返って
つげ義春がデビューして貸本用マンガ(少年向け)で活躍し始めたのは、1955年以降。当時最晩年だった永井荷風さんが、つげの少年向け初期作品を読んでいたとは想像できません。
一方、つげは芸術総合誌「ユリイカ」(1982年3月号)の対談の中で、[最近は、永井荷風ほかの古典作品もずいぶん読んでいる]旨を語っています。
裕福な家庭に育った荷風さんと、早くに実父を亡くし貧困に苦しんだつげ。活躍した時代も違い、接点もなさそうな2人ですが、庶民の視線で市井の人びとの(下世話なシーンも含めて)生き様を淡々と描写した。そんな共通点が感じられます。
『現代漫画12 つげ義春集』(筑摩書房刊)の中の『微笑みについて―作家と作品-』(佐藤忠男)の一節(つげの作品『やなぎ屋主人』に対する評論)が印象的でしたので、以下にご紹介します。
~「どうやら、この主人公の表情は、つげ義春の自画像であるらしい。そして、その表情は、どことなく、たとえば永井荷風などの、市井陋巷の詩人のおもかげとだぶってくる」。
では、皆さんまたお会いしましょう・・・。