【第46回】2026年10月

文豪と灯籠。勘違いもあり、そしてこちらは何かの〝手違い〟?

「灯籠」は、伝統的な屋外照明器具。寺社、庭園、街路などに置かれた石造のものといったイメージでしょうか。かつての光源は油やロウソクで、今では電気によるものも。そして、装飾用に徹して光は灯さないケースも少なくないようです・・・。

「葛飾八幡宮」は、永井荷風さん終焉の地の近く

まずは、市川市の「葛飾八幡宮」を訪ねました。

▲最寄りは、京成本線・京成八幡駅。創建以来1,100年以上の歴史があり、下総国総鎮守として崇敬されています。拝殿の手前に一対の石灯籠が見えます。

荷風さんの代表作日記文学『断腸亭日乗』1946年5月9日にこんな記述が。~「・・・午後再び葛飾八幡の境内を歩む、祠前の常夜燈に明和五年丙子の年号を見る・・・」。

荷風さんは、麻布の自宅を戦火で失い流転を繰り返した後、1946年1月に市川市に転居。1959年4月に亡くなるまで、菅野や八幡のエリアで間借り2軒と自居2軒を住み替えながら過ごしました。葛飾八幡宮は終焉の地(自居2軒目)の近くですが、上記を書いたのは間借り1軒目の頃です。

荷風さんは「常夜燈」と言っていますが、灯籠と常夜燈(灯)は基本的に同じジャンル。形態面主体ならば灯籠で、機能面(夜間の目印・道案内)を重視すると常夜灯。そんなところでしょう。葛飾八幡宮のものは、今でも銘がはっきりと確認できます。

▲明和五「戌子」年正月と確認できます。先ほどの『断腸亭日乗』では、明和五年「丙子」だったのでは? 年をあらわす「十干十二支」(じっかんじゅうにし)の組み合わせ。荷風さんも自著の結びにこうした2文字を入れて完成時期を示すことが少なくないですが、どちらが正しいのでしょうか。

明和5(1768)年は、「戌子=ぼし=つちのえ・ね」が正解。ちなみに「丙子=へいし=ひのえ・ね」は、近いもので宝暦6(1756)年です。荷風さんのこの誤り、今から半世紀近くも前に研究者が指摘しています。終戦後間もない混乱期で、荷風さんも心身ともに疲れ切っていた頃。そんな時期の、まあ単なる〝勘違い〟なのでしょう。

芥川龍之介終焉の地は、田端駅の近く

続いて「田端文士村記念館」へ。

▲1993年開館。JR山手線ほか・田端駅のすぐ近くです。1889年に上野の森に東京美術学校(現・東京芸術大学)が開設されると、近くの閑静な農村地帯だった当地周辺に若い芸術家たちが移り住むように。その後大正期以降には文士たちの移住も相次ぎ、「田端文士村」と呼ばれました。

館内展示の目玉の1つが、こちらです。

▲[出典]「Japan Diorama」(株式会社モダン・アイズ)サイト内「ジオラマ制作事例~芥川龍之介邸」。田端駅近くの高台にあった芥川龍之介の自宅が、スケール1/30(タテ約1m×ヨコ約1.5m)のジオラマ模型で詳しく再現されています。

当館では、このジオラマ模型を2015年10月から展示。資料や書籍だけではなく古い写真やフィルム映像も活用して、外観や内部の様子が精巧に忠実に再現されていると評判です。折角の機会なので、実際の自宅跡地も訪ねてみましょう。

▲現地は奥に向かって広がる敷地で、面積約640㎡。写真中央やや右側・解説板の立つ辺りに、門があったようです。跡地にはマンションや戸建が建っています。写真左側・奥のほうの土地は、北区が買収して「芥川龍之介記念館」(2027年7月開館予定)を建設中です。

▲解説板。1927年7月、こちらの自宅で逝去(自死)。そして、太平洋戦争の東京大空襲(1945年3月10日)の約1ヶ月後・4月13日の空襲によって、芥川邸は焼失してしまいました。

芥川龍之介邸の庭灯籠。どこにどんなものがあった?

田端文士村記念館に戻ります。館内は写真撮影禁止のため、先ほどのジオラマを紹介した新聞記事掲載写真等をもとに、芥川龍之介邸にあった庭灯籠の説明をします。

【芥川龍之介旧居のジオラマ模型における庭灯籠(2基)の概略状況・イメージ図】

[写真出典] 四国新聞社「全国ニュース」(2016年3月31日配信)

  • 赤色の[灯籠①][灯籠②]マル囲みや説明表示並びに黄色の説明引出し矢印を写真上に加筆しています。
  • 黄色矢印の先に各々示したイラストは、ジオラマ模型における各灯籠のイメージをAIで再現したものです。
  • ジオラマ模型では、1階茶室の外に小さな庭灯籠が確認できますが、背の高いものは上記の2基だけでした。

先ほどの現地で解説板が立っていた辺りに門が、そして奥に進むと母屋の玄関がありました。門を入ってすぐ左側に[灯籠①](区別の便宜上、以下このように略称します)が、玄関手前の左側に[灯籠②](同上)がありました。

ジオラマ模型の実物写真で示せないのが残念ですが、灯籠2基の形状は模型実物にかなり近いものに仕上っています。「柱」と呼ばれる支柱部分は、[灯籠①]が角張っていて[灯籠②]は円柱状。灯火部分の上にかぶさる「笠」と「玉(宝珠)」は、[灯籠①]がよく見かける形状の一方、[灯籠②]はちょっと珍しいイメージです。

2基の外観の(明らかな)違いを覚えておいてください。なお、記念館のホームページ内で動画による説明も見ることができます。

[参考資料]
田端文士村記念館ホームページ
https://kitabunka.or.jp/tabata/exhibition/
⇒上記URLから、「展示概要」~「芥川龍之介 田端の家復元模型」~「動画で見る」と進むことができます

興味のある方は、上記の動画(全3分49秒)の中で[2分33秒~2分41秒のシーンの画面左側]にご注目ください。[灯籠②]が鮮明に確認できます。また、館内で上映される動画(本動画の詳細版・約20分)でも、実際の現地のフィルム映像で[灯籠②]の姿が確認できます。

この2基の庭灯籠、今ではどうなっているのか。いよいよ、すみだの地に向います。

こちらは、[灯籠①]でしょう・・・

【第21回】にも登場した「法恩寺」に来ました。

▲所在は、墨田区太平1丁目。地名「太平」は、当寺建立ゆかりの偉人(太田道灌公)と当寺の号(平河山)にちなんでいる。そんな説がありました。

蔵前橋通りから続く長い参道沿いに、当寺に属する小院(塔頭・塔中=たっちゅう)が建ち並んでいます。20も数えた最盛期から大きく減って、現在残るのは4院。その中の「法泉院」が目的地です。

▲小ぢんまりとした法泉院。【第35回】で訪れた「千栄院」(せんえいいん=「たんぼとけ霊場」)と参道を挟んで反対側にあります。

【第29回】【第30回】で続けて詳しく取り上げましたが、芥川龍之介はごく幼少期から長くすみだの地で暮らしました。そんな縁によるものかどうかはともかく、田端の旧宅にあった2基の庭灯籠のうち1基がこちらにあるようです。

▲本堂に向かって左側。さりげなく置かれた灯籠。解説板などはなく、墨田区内の観光案内等でも、この灯籠に言及したものは見当たらないようです。後述する当院の兄弟寺(千葉県館山市所在)の解説によれば、芥川龍之介旧邸にあった庭灯籠のうちの1基なのだそう。

田端文士村記念館のジオラマ模型を思い出してください。柱(支柱部分)も灯火部分の上にかぶさる笠・玉(宝珠)も、その形状から[灯籠①]だと推測されますね。では、残り1基を見に行きましょう。館山へ!

残る[灯籠②]は、果たして・・・

後日、千葉県館山市にある「法性寺」(ほつしょうじ)を訪ねました。

▲JR内房線・館山駅から東側(海とは反対側)に10分ちょっと歩いたところです。すみだの法泉院と当寺は日蓮宗の兄弟寺。ちなみに、芥川龍之介の菩提寺も日蓮宗です。写真の右側、緑の多い一角に灯籠が置かれていました。まずは、解説板から見てみましょう。

▲灯籠の奥に解説板がありました。当寺に灯籠のうち1基がある由緒もコンパクトに分かります。

古い話なので、多少異なる内容も伝わっています。「館山フィールドミュージアム」(館山市立博物館)ホームページ内の「法性寺」では、次のように解説されています。

芥川龍之介邸灯篭
本堂右前に高さ1.8mの御影石の石灯籠がある。作家芥川龍之介邸にあったもので、昭和2年(1927)に龍之介が没した後、友人が邸宅を譲り受け、後に墨田区本所の法泉寺(ママ)へ寄贈した。同寺と法性寺とは兄弟寺にあたることから、鵜沢(うざわ)住職が昭和56年(1981)に宗祖(しゅうそ)七百年遠忌(おんき)の記念に譲り受けた。(後略)

2基とも一旦すみだに移されたかどうかの経緯は異なりますが、いずれにしても1基が館山の地にあることは相違ありません。では、その灯籠は[灯籠②]なのかどうか・・・。

▲先ほどの解説板の前に灯籠が置かれています。木の枝が元気よく茂っていて全貌が分かりづらいので、先述「館山フィールドミュージアム」ホームページ内の写真を以下に転載します。

▲[出典]「館山フィールドミュージアム」(館山市立博物館)ホームページ~「法性寺」(3)芥川龍之介邸灯篭。

あれっ! 先述の[灯籠②]とは似ても似つかない外観です。灯火部分の上にかぶさる笠と玉(宝珠)の形状は、すみだの法泉院にあった灯籠と同じ雰囲気。但し、柱(支柱部分)が円柱状で中間に輪っか状のふくらみもあり、法泉院のものとは明らかに違います。

柱(支柱部分)の形状以外は、館山の灯籠も[灯籠①]に似ています。[灯籠②]はどうなってしまったのでしょうか? 狐に包まれたような気分で、館山を去ることになりました・・・。

今回のさんぽ を振り返って

すみだの地以外が多かったですが、2人の文豪の灯籠に関するエピソード。それぞれの灯籠の実物も確認しながら巡るという、とても実証的な(笑)さんぽとなりました。

予想外だったのは、館山で当然出会えると疑っていなかった[灯籠②]の姿が確認できなかったこと。芥川龍之介の逝去(1927年)後、館山の地への移設(1981年)までの長い時間。2基の灯籠には、太平洋戦争の空襲や戦後の混乱期を経て、また邸宅が芥川家の手から離れた後など記憶の空白があることは否めないでしょう。

何らかの経緯で改造・改装されて形状が変わったのか。(1952年に)浅草へ移設される際に別の灯籠と入れ替わってしまったのか。よりユニークな形状だった[灯籠②]の、その後の謎は尽きませんね。では、皆さんまたお会いしましょう・・・。

永井荷風のイラスト

営業情報

※営業時間・定休日は変更となる場合あり。来店前に電話等で確認してください。

田端文士村記念館 東京都北区田端6-1-2 TEL:03-5685-5171 開館時間:10:00~17:00(最終入館16:30) 開館日:火曜~日曜 定休日:月曜(祝日の場合、次の火曜と水曜)・祝日の翌日(土曜・日曜の場合、翌週火曜)・年末年始(12/29~1/3)・その他、展示替え等による臨時休館あり

参考

筆者プロフィール

上野 慎一(うえの しんいち)
1957年生まれ。横浜市出身。1981年早稲田大学政治経済学部卒業。2015年にサラリーマンリタイア後、暮らしや経済に関するネット記事を執筆。「人生は片道きっぷの旅のようなもの」をモットーに、お城巡りや居酒屋巡りなど全国あちこちの旅を楽しんでいます。

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