花火資料館は、コンパクトなスポット
まずは「両国花火資料館」へ。
▲JR・両国駅(西口)から徒歩5分ほど。京葉道路(国道14号線)に面したビルの1階奥のほうにあります。
▲コンパクトな規模の館内ですが、原寸大模型の花火玉の大きさに圧倒されます。写真右下が3尺玉(直径約90㎝)。壁面に全体像(右側)と断面(左側)のペアがタテ方向に5つ展示された一番下が3号玉(直径約9㎝)です。
資料館のパンフレットによると、隅田川花火のルーツは1733年。8代将軍・徳川吉宗の世、大飢饉や疫病流行により多くの死者が。その慰霊や悪病退散祈願を目的に「両国の川開き」行事として始まりました。
▲花火の「高さ比べ」イラストは、とてもビジュアル! 東京スカイツリーの姿と比較しても、高く上がって大輪の花を咲かしている様子が分かります。しかし、大サイズの玉を打ち上げるには、安全確保のため周囲に広大な空き地が必要。市街地で大きな玉は使えないようです。
ちなみに、隅田川花火大会では5号玉(直径約15㎝)が最大。先ほどの壁面の原寸大模型の上から3番目です。沿岸の住宅等密集化によりこのサイズは一時禁止されましたが、1986年に復活したという経緯があります。
今の隅田川花火大会の打ち上げ場所は、第一会場(桜橋・言問橋の間)と第二会場(駒形橋・厩橋の間)の2ヶ所。では、江戸時代は? こんな浮世絵が残されています。
▲[出典]文化庁「文化遺産オンライン」~「名所江戸百景・両国花火」(東京国立博物館蔵、歌川広重筆 1858年)
隅田川に架かる両国橋。付近の川の上から花火が上がり、夜空にきらめくスケール感が見事です。橋上には多数の人影が。そして橋の周辺にも、見物の舟がたくさん見えます。当時の両国橋は、今よりも少し下流側にありました。
花火資料館で学んだ〝今昔の違い〟とは?
花火資料館で聞かせてもらった話やパンフレットなどから学んだ、ちょっと意外かもしれないこと。次のような内容でした。
<その1> もともとの打ち上げ場所は、両国橋付近だった
- ・先ほどの通りです。
<その2> 江戸時代や明治前半の花火は、カラフルではなかった
- ・先ほどの広重の浮世絵。多色摺りもできるはずなのに色目が地味です。当時は「和火」。今の線香花火のような単色だったようです。
- ・実は、花火に赤緑青色の発色が(薬剤により)できるようになったのは、明治も半ば頃の1887年。花火をより高く打ち上げ、より広範囲に飛び散らせるようになったのも、新たな着火起爆剤のたまもの。これらの輸入技術により「和火」から「洋火」へと発展したのです。
<その3> 今の「隅田川花火大会」の歴史は、思ったほど長くはない
- ・「両国の川開き」以来、300年近い歴史。時には、政府による禁止時期もあり。太平洋戦争での中断を経て、川開きが復活したのは1948年です。
- ・しかし、周辺の住宅密集化や隅田川の水質汚染などによって1962年に廃止。花火大会として復活したのは1978年で、今年は第49回。半世紀近い歴史ですが、江戸時代まで視界を広げると〝意外と短い〟のかもしれません。
すみだの〝西の端〟エリアへ
次は、「一ノ橋通り」を南下します。途中で、こんな解説板を発見。
▲誰もが知っている「握り鮨」。江戸時代に屋台で提供されたファストフードがルーツですが、その大成者が華屋与兵衛(小泉与兵衛)。同名の和食外食チェーンがありますが、残念ながら墨田区内には出店していないようです。
この辺りは、墨田区でも一番西側のエリア。通りの名にもなっている「一之橋」の手前を西側に入った一角に、次のスポットがありました。
▲「袋物博物館」(東屋)。ビルの1階が入口で、博物館は螺旋階段を上がった中2階。墨田区内に24ヶ所ある「すみだ小さな博物館」の1つです。2004年に開設され、2021年7月にリニューアルオープンしました。
[参考資料]
墨田区ホームページ内「すみだ小さな博物館」
https://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/small_museum.html
同上からさらに「袋物博物館」
https://www.city.sumida.lg.jp/sangyo_jigyosya/sangyo/pr_brand_hyousyo/sumida3m/tiiki/nanbu/hukuromonomuseum.html
▲1905年創業の老舗メーカー。手動ミシンほか各種工具や袋物製品が展示され、壁面の説明パネルを見ると、伝統工芸の歴史や詳しい内容などが学べます。
製品関係だけではなく、東屋・木戸家の歴史に関する品々も展示。一角には、こんな写真パネルがありました。
▲写真パネルに添えられた説明パネルも紹介します。29年前のものですが、木戸家の女性・親子三代が勢ぞろい。今は、一江さんが当博物館の館長、麻貴さんは東屋の六代目となっています。
▲来館者名簿に氏名を記入すると、嬉しいプレゼントが。牛革製のしおりをいただけます(色は在庫内で選択可能)。「東屋」のプレスに〝本物感〟が伝わってきますね。
気さくな館長・一江さんの話は面白くて、奥が深いところも。太平洋戦争末期の1945年、墨田区南部の旧・本所区は東京大空襲(3月10日)で96%が焼失するという戦禍に見まわれました。しかし当地は焼失を免れ、お母様におんぶされた一江さんも無事だったとのことでした。
博物館の真下で、ひと休み
博物館の階下にある「MARUA CAFE(マルア カフェ)」で、ひと休みしましょう。もともとビルの駐車場だったスペースを活用して、2024年2月にオープンしました。
▲赤色地に白のマークは、東屋の代表商品の1つ・がまぐちをモチーフにしたもの。○を組み合わせたような模様は『まるあ柄』。「気持ちをまあるく笑顔に」のコンセプトから生まれた東屋のオリジナル。よく見ると張り出した軒天井にもパンチングして設置されているようです。
▲店内は、モダンでおしゃれな雰囲気。東屋六代目の麻貴さんほかスタッフが出迎えてくれます。写真中央ともう1ヶ所のラックでは、東屋製品が販売されています。カウンター上の釣り天井にもご注目! 『まるあ柄』のパンチング設置があるのです。
▲店内手前のカウンター席やソファー席の奥には、ゆったりとしたスペースが。屋外のテラス席はペット同伴可で、川沿いの解放感を味わえます。
▲「ビターブレンド フルシティロースト」(右・アイス800円)は、地元「すみだ珈琲」の焙煎豆を使用。暑さをクールダウンしてくれる爽やかな味わい。「あずきミルクアイスモナカ」(左・680円)は、サクサクのモナカと自家製ミルクアイスベースのあずきアイスとの相性が、抜群でした。
お店を出て、「一ノ橋通り」をJR・両国駅方面に戻ります。先ほどの「与兵衛鮨発祥の地」解説板の近くに、こんな解説板がありました。
▲江戸時代、江戸の防衛や保安のため、隅田川には橋がほとんど架かっていませんでした。両国橋(1660年前後に初代架橋)は、当時の武蔵国と下総国の〝両国〟を直結する希少なスポット。橋の東詰めエリアだった当地の賑わいぶりが偲ばれます。
今では橋の東詰め(墨田区)エリアだけの地名や駅名のようですが、橋の西詰め(中央区)エリアも「両国」だったのです。解説板の地図で、東屋の場所が旧・元町4ブロックの南端、竪川に面した細長いエリアの一角であることが確認できます。
さんぽの仕上げも、両国で
今日のさんぽの仕上げは、勝海舟ゆかりのスポット「両国公園」の近くで。ちなみに、今日訪ねた各スポットの地名は、全部「両国」です。
▲「日本酒BAR(バル)両国 竹岡」。マンションの1階にある小さなお店です。2023年11月にオープンしました。
▲カウンター・6席だけ、細長くてコンパクトな店内は、清潔感に溢れています。
▲まずは、クラフトビール「山椒ゴールデンエール」(和歌山県・1,000円)で喉をうるおします。
▲「お通し」(600円)は、かぼちゃの冷製スープほか計3種の充実ぶり。続いて、日本酒「仙禽 かぶとむし」(栃木県・60ml・500円)と「ゴルゴンゾーラのミニ春巻き」(500円)をいただきました。
▲代表メニューの1つ「パテ・ド・カンパーニュ(田舎風焼きパテ)」(700円)と「酒のつまみになるパン」(ハーフ・250円)。日本酒は「大倉 特別純米 雄町」(奈良県・60ml・500円)を追加。
▲シメの日本酒は「竹岡 特別純米 総の舞」(千葉県・60ml・500円)を。蔵元・和蔵酒造の所在地[千葉県富津市竹岡]にちなんだ銘柄名。千葉市出身のご店主が理想と思う酒造りの郷で、店名の由来でもあるそうでした。
日本酒を1合(180ml)の半分とか1/3の少量で提供してくれるところは、経験的に良い店が多いように思います。お客にとっては、より多くの銘柄を比べながら楽しめる。お店にとっては非効率ですが、ラインアップをできるだけ多く味わってもらいたい。そんな心意気が感じられるのです。
控えめなご店主ですが、決して寡黙というわけでもなし。話してみると、いろいろと気さくに応じていただけて、楽しいひと時を過ごせました。
今日のさんぽ を振り返って
花火は、夜空を鮮やかに彩ります。そしてその輝きは、ほんの一瞬でなくなるもの。人生の「明と暗」や「はかなさ」に擬せられることも多いと思います。
永井荷風さんの随筆風作品『花火』(1919年)。ある日の昼食時、花火の音で当日が第一次世界大戦講和記念祭であることに気付きます。それをきっかけに、若き日以来の官製の祝賀イベントや社会騒動のことなどをつれづれに回想。
この連載【第31回】でも触れましたが、1909年に自著『ふらんす物語』が風俗を乱すとの理由で発禁処分に。また、フランス「ドレフュス事件」(1894~1906年)や日本の「大逆事件」(1910年)など国家による冤罪事件が発生。
ドレフュス事件では、心酔する作家エミール・ゾラほか知識人たちが活動して冤罪は最終的に無罪判決となり解決。一方、大逆事件では死刑執行に至ります。荷風さんは、ゾラの行動力に比べて自身の無力さを痛感。
「わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した」~『花火』の中盤で、しみじみと述懐しています。
薩長を起源とする明治以来の政治体制に対して〝ニヒル〟なスタンス。荷風さんにとって、この日の花火は気分を下げるものだったのかもしれません。では、皆さんまたお会いしましょう・・・。