この公園は、かつて大規模な「仮埋葬地」になった
今日は、錦糸町エリアから北上します。平和の尊さを改めてかみしめる。そんな思いで、さんぽしてみましょう。スタートは「錦糸公園」です。
▲関東大震災(1923年)の復興事業として1928年に開園。敷地面積約5.6万㎡と、墨田区内有数の広さの公園(写真は南西端の入口)です。
▲公園内「ちびっこ広場」から緑豊かなゾーンが見えます。いつも大勢の人たちで賑わうスポット。実は、かつて東京大空襲の犠牲者の多くが仮埋葬(遺体は戦後に改葬)された地です。そんな悲しい歴史を伝える解説板などは見当たりません。
東京大空襲の被災状況は、[現在の江東区・墨田区・台東区を中心に、焼失家屋約26万戸、被災者約100万人、死者約10万人]そして[錦糸公園に仮埋葬された遺体数1万2,895](毎日新聞2013年9月15日の記事より各引用)です。
また、東京大空襲による墨田区の焼失面積は前身の旧2区でいうと、[本所区の96%、向島区の57%。合算して墨田区全体の約70%以上が焼失したことになる](総務省ホームページ内「墨田区における戦災の状況(東京都)」より引用)という惨事でした。
公園の片隅にある神社は、当地の長い歴史を教えてくれる
こうした悲しい歴史もある大きな公園。その南西側の一角には、こんな施設が。
▲「千種稲荷神社」は、ちょっと窮屈そうにも見える細長いスペースの中にあります。
▲明暦の大火(1657年)以降、隅田川以東エリアでの埋め立てや市街地開発が本格化。当地周辺も、武家や町人が移住して賑わうようになりました。そんな地元の氏神(稲荷社)としてスタートしたようです。
明治維新後、武家屋敷跡地等に陸軍糧秣廠が設置された際、稲荷社は撤去。ところが(たたりなのか)倉庫や周辺で火災が何度も発生したことから、元の位置に再興されました。関東大震災後、錦糸公園整備に伴い再び撤去放置されると、周辺にまた火災が多発。許可を得て公園内に神社が再々興され、東京大空襲の戦災も乗り越えました。
当神社の由来記によると、[東京大空襲時には多くの人が境内に避難して戦火を逃れた。その後境内整備を重ねたうえで1955年に建物を東京都に移管し、1965年から墨田区立公園となった]とのこと。
公園の〝すみっこ〟の神社ですが、このエリアで一番古い歴史やその後の数奇な変転を記憶するスポットなのだと実感しました。
公園のすぐ近くにも、戦災に絡むスポットが
錦糸公園のすぐ北側にあるのが、複合施設「オリナス錦糸町」です。
▲オフィスビル(写真左)とタワーマンション(同右)が空高くそびえ、その足元に商業施設「オリナスモール」が展開されています。2006年4月に全体オープンしました。
この地には、精工舎(服部時計店<現・セイコーグループ>の製造部門)の工場がありました(1997年閉鎖)。跡地は再開発されて大きく姿を変えましたが、かつての工場はシンボル的な時計塔のある大拠点でした。
▲[出典]「セイコーミュージアム 銀座」サイト内「セイコーと時計の歴史」。1893年に当地へ移転開業した工場は関東大震災でほぼ全焼しますが、その後再興。写真は1930年当時の姿で、写真下部の大通りが今の「四ツ目通り」です。
日本の時計ブランドの代表格。その製造拠点だったことで、東京大空襲における中心ターゲットの1つになってしまいました。一体どういうことでしょうか。
『東京大空襲 B29から見た三月十日の真実』(E・バートレット・カー著・大谷勲訳、光人社刊)から引用します。~「この地区には(中略)重要爆撃目標が六ヶ所もあり、なかでも重視していたのは「精工舎」(現・服部セイコー)だった。もともとは時計をつくる会社だが、戦時下となると砲弾の時限装置や精密軍需機械を製造していたからである」。
すみだほか下町エリアに多くあった中小工場、そして大工場も、戦時体制の中で軍需や兵器のための製造拠点に転換させられました。精工舎の精密機器製造機能があだの1つとなって、すみだの地が東京大空襲の中心ターゲットとなってしまったようです。
〝隠れ家〟のようなところでひと休み
次のスポットに向かう前に、ひと休みしましょう。やってきたのは「uni CAFE」(ウニ カフェ)です。
▲オリナス錦糸町より少し北側、四ツ目通りを挟んで反対側の一角にあります。ご覧のような入口で、ちょっとした〝隠れ家〟のようです。
▲木調の入口ドアを開けると、写真左のキリンのぬいぐるみが出迎えてくれます。店内は、イス・テーブル・ラックとも木調。落ち着いていて、ついつい長居したくなるような雰囲気です。(休日と平日混雑時には、滞在時間制限をするほど)
▲「uni プリンセット」(1,300円)。飲み物は、アイスコーヒーを選びました。
2018年7月オープン。大通りに面していることを忘れさせてくれる〝隠れ家〟感が、ユニークでした。昼はランチ、夜はカフェバーとしても賑わっています。
この地にあった「セツルメント」とは?
リフレッシュしたので、さんぽを続けましょう。次のスポットは、「墨田区立柳島児童遊園」。マンション群の中にある小さな公園ですが、その一角にこんな解説板を発見しました。
▲小ぶりな板面に、写真や文字の情報が満載。部分的に拡大してみます。
▲解説板の上部を拡大したもの。大学生たちと地元の子どもたちが仲良く写っています。「セツルメント」や「ハウス」と呼ばれた施設建物の規模感が伝わってきます。
▲次は、解説板の文章部分を拡大。末尾「当時の理想は、現在でも社会福祉事業、生協・医療生協運動、ボランティアやNPOの活動などに受け継がれています」とのくだりには、共感できるものがあります。しかし、解説文の下から5~4行目を見てください。
「国家総動員法が成立した昭和13年(1938)にはついに解散を宣言し、活動を終えました」との記述。生活者としての自立を支援するという地道な社会活動が、戦争遂行に突き進む体制から目の敵にされた。ちょっと不可解でもあります。
戦時体制は、常に〝上意下達(トップダウン)〟となりがち。大衆レベルでの助け合いのような〝ボトムアップ〟的な活動が排除されるのも、時代の流れだったようです。
永井荷風さんも訝った「国家総動員法」
先出の「国家総動員法」。戦争遂行のためにあらゆる人的・物的な資源の運用や統制を政府に委ねる。そんな法律です。筆者の手元に、『戦時経済法令集』(東洋経済新報社編、1938年7月23日5版)という古本があります。たまたま、学生街の古本屋の店頭で見つけて購入したものです。
▲やや色あせた箱ケース。旧字体の漢字がいかめしい雰囲気です。発行者は1895年創立の老舗で、今でも同じ社名です。本の巻末に記された定価は、壱圓(1円)でした。
▲本の冒頭に、「国家総動員法」が掲載されています。各条項には、赤い○印の手書きチェックが多数。裏表紙に、当初所有者の所属や氏名をタイプ打ちした紙片が貼られていました。所属「千葉県警察部工場課勤務」。工場の統制や監視を担当する警察官のものだったようです。
第6条は、政府が[必要に応じて勅令を定め、従業員の使用・雇入・解雇、賃金その他の労働条件に対して必要な命令ができる]旨の規定です。そして実際に、勅令「賃金統制令」が1939年3月に公布されました。
戦時体制下、軍需拡大の一方で労働力不足な状況による賃金上昇を抑制する。同時期の「価格等統制令」による物価統制ともども、戦時インフレ対策のため、日々の生活がさまざまな局面で抑制されたわけです。
永井荷風さんの代表作日記文学『断腸亭日乗』。その1941年6月21日にこんな記述があります。~「下谷辺のある菓子屋にてその主人店の者に給金の外に慰労金を与へしこと露見し、総動員法違反の廉(かど)にて千円の罰金を取られし由。使用人に賞金を与へて罰せらるるとは不可思議の世の中なり」。
荷風さんの指摘は、もっともです。従業員思いの店主の好意が、摘発されて罰金刑。85年後の今に接しても、戦時体制下での何ともやるせない息苦しさや違和感を覚えずにはいられません。
さんぽのシメは、「セツルメント跡」のすぐ近くで
今日のさんぽのシメは、柳島児童遊園のすぐ近くの「cafe&BAR sola(ソラ)」で。
▲大きなマンションの1階に展開する店舗群の端にあります。ガラス戸から店内の様子も分かり、先ほどひと休みしたカフェと対照的です。
▲こちらも、木質系中心で落ち着いた雰囲気。店内の壁には「アラスカ写真展」として写真群が掲示されていました。新進の作家たちに発表の場を提供(期間3ヶ月くらいで作品販売も可能)し、お店も店内がアートで折々に彩られる。ご店主の〝ウィンウィン〟なグッドアイデアです。
▲まずは、瓶ビール(サッポロラガー・770円)で今日のさんぽにお疲れさま!
▲冷たいビールにアツアツの枝豆で、夏らしさ満開! 続いて、「琉球泡盛 八重泉」(沖縄・石垣島、660円)水割りと「自家製焼売」(880円)をいただきました。
▲最後のお酒は、グラスワイン白「ウッジターノキャンティ」(770円)。
▲シメの食事を兼ねて「五目ちまき」(1,100円)を。
和洋中にエスニック(タイ)と無国籍的に展開する料理群。愛車の中型バイクを駆るライダーでもあるご店主は、話好きでとてもきさくな方。楽しいおしゃべりで、あっという間のひと時でした。
今日のさんぽ を振り返って
戦災や戦時体制の記憶を辿るという(重苦しめな)さんぽでしたが、平和と平時のありがたさを再認識する機会にもなったのではないか。そんな思いです。
東京大空襲では、精工舎以外のターゲット拠点も下町エリアに多かったようです。その中で、もともと時計という生活に密着した平和な機器を製造していたことが、結果的に中心ターゲットとして大空襲を呼び込んでしまった。戦時体制や戦争の不条理さを、改めて実感いたします。では、皆さんまたお会いしましょう・・・。