【第42回】2026年6月

「ドナルド、あなたは間違っていないと思う・・・」~これって、誰へのコメント?

2期目就任以来、1期目のときよりもお騒がせ言動が一段と多い某国大統領。その人に対するおべんちゃらでは、決してありません。答えは、ドナルド・キーン(1922~2019)。日本文学に造詣の深い米人文学者で、晩年には日本に帰化し日本で亡くなっています。さて、すみだとの関係とは・・・。

まずは、小説『すみだ川』の舞台へ

永井荷風さんの初期の名作小説『すみだ川』(1909年)。物語は、隅田川の両岸で展開します。そして、キーンはこの作を含む日本文学作品群の英訳版を刊行(1956年)しています。舞台は、今の「桜橋」(歩行者専用橋)にほど近い両岸エリアが中心です。

▲かつて、隅田川には橋がほとんど架かっていませんでした。両岸を舟で行き来するために、多数の「渡し」が存在。その1つ「竹屋の渡し」は、今の桜橋と言問橋の間にありました。

ここで、『すみだ川』の主な登場人物をおさらいしておきましょう。

○松風庵蘿月(らげつ)<俳諧師>
・小石川の質屋の跡取り息子だったが、放蕩により勘当される。今は、風流三昧に生きている。
・本所の小梅瓦町(上記の地図で、三囲神社の南東方面エリア)に居住。

○お豊<常磐津師匠>
・蘿月の実妹。番頭を婿にして質屋を継ぐが廃業を余儀なくされ、夫とも死別。今は、常磐津師匠で生計を立てている。
・今戸神社(上記の地図参照)の近くに居住。

○長吉<お豊の一人息子>
・大学入学を目指して勉学中。

○お糸<長吉の幼馴染>
・今戸の煎餅屋の娘。芸者の道に進むこととなり、長吉の日常から離れていってしまう。

お糸の転身がきっかけで、長吉は勉学に身が入らず。大学に進まず役者になりたいと言い出して、お豊は狼狽。長吉を思いとどまらせるよう、兄の蘿月に説得を依頼します。さて、結末は・・・。ざっと、こんなストーリーです。

小説冒頭のすぐ後のシーン。盛夏の夕刻、蘿月が三囲稲荷(神社)裏手の竹屋の渡しから隅田川を渡り、今戸橋を経てお豊宅を目指す場面から物語が動き始めます。

▲三囲神社。三井家が江戸時代に日本橋に進出して「越後屋」(現・三越日本橋本店)を開業して以来の守護神といわれます。鳥居の左側に見えるライオン像は、三越池袋店(2009年閉店)の店頭にあったものを移設。拝殿手前両側、赤い首掛けをまとった狐像は、優しそうでとても温和なお顔です。

▲神社の西北側の裏手。かつてはこの辺りがもう隅田川で、竹屋の渡しが設けられていました。写真右端の解説板によると、対岸(今の台東区側)にあった船宿「竹屋」に由来するそう。言問橋の開通(1930年)まで、渡しは存続しました。

桜橋から今戸へ

蘿月は渡し舟に乗りましたが、今では桜橋や言問橋で対岸に渡ることができます。ひと休み用にまずは買い出しを。

▲コーヒーショップ「Leap up coffee」。三囲神社のすぐ近くの住宅エリアの一角に、2024年11月オープンした〝隠れた人気店〟です。

▲お店のスローガンは、「世界中から集まった素晴らしい珈琲豆」「生豆から丁寧に焼き上げ」「美味しい珈琲を多くの方に届けたい」です。焙煎機の姿も見え、焙煎した商品の棚の左側スペースでは、コーヒーをハンドドリップしてくれます。

▲コーヒー「ブラジル」(600円)とアップルパイ(350円がセット割引で300円に)をテイクアウト。桜橋を眺めながら、河畔のベンチでいただきました。名物「メロメロ メロンパン」は、焼き上がり時間にタイミングが合わず。次回の楽しみに取っておきましょう!

かつて、今戸名物だったモノとは?

桜橋で隅田川を渡り「隅田公園」(台東区側)を抜けたところに、こんなモニュメントを発見。

▲かつての「今戸橋」は、隅田川から新吉原に続く「山谷堀」に架かっていました。『すみだ川』の中でも、何度も登場するスポットです。今は、親柱などが残るだけ。堀は1976年頃から埋め立て(暗渠化)され、上部は公園として整備されています。

▲今戸橋跡から少し北上すると「今戸神社」に到着。「浅草名所七福神」の「福禄寿」スポットであり、縁結びのご利益でも有名です。『すみだ川』では、旧称「今戸八幡」と言及されています。

▲拝殿手前の一角には、こんな石碑と解説板が。解説板を拡大してみましょう。

▲当地ではかつて、瓦・日常使いの焼き物・土人形などの「今戸焼」が名産品でした。解説文の3~4行目にある「狛犬」(先代)は、金網に囲まれ境内で大切に保存されています。近時は、解説文の最後3行のような状況です(台東区ホームページで2024年2月に同内容の更新履歴あり)。

かつて風光明媚な土地柄だった隅田川の沿岸。今戸焼の窯から上る煙と橋場の渡しの様子を描いた、こんな浮世絵も残されています。

▲[出典]国立国会図書館「電子展示会」~「錦絵と写真でめぐる日本の名所」~「橋場・今戸」~「名所江戸百景 墨田河橋場の渡かわら竈」(歌川広重筆 1857年)

立ち上る煙が画面を切っている構図なのに、絵全体の〝分断感〟が全然ないのが不思議です。川上方向に見えるツイン峰は筑波山でしょう。

ドナルド・キーンが〝間違えた〟と誤解したこととは?

『すみだ川』の関連スポットをざっと巡りました。ここで、最初のテーマに戻りましょう。盛夏の夕刻、蘿月が舟で今戸側に到着した後のシーンは、以下の通りです。

黄色網掛け部分を見比べてください。「今戸焼」=「Imado pottery」で何も違和感はありません。ちなみに、陶器・焼き物を作る人は英語で「potter」。小説や映画の主人公「ハリー・ポッター」や、「ピーターラビット」の原作者「ビアトリクス・ポター」は、この職業ルーツの姓(苗字)なのでしょう。

キーンは、永井荷風さんに1度だけ面会しています。代表作日記文学『断腸亭日乗』1958年6月20日に、知己の中央公論社の嶋中氏(社長)と高梨氏(編集者)来訪の記述があり、この時に同行した模様です。(但し、キーンが来訪したことには何も触れられていません)

キーンは、回顧録『声の残り 私の日本文壇交友録』(朝日新聞連載〈1992年4月1日~同年7月14日〉、金関寿夫訳)の中で、荷風さんの埃だらけの住まいと風采の上がらない最晩年(当時78歳)の容姿に驚いたと述懐。一方で、その口から発せられる日本語の美しさに感銘を受けています。

荷風さんは『すみだ川』の英訳版を読んでいて、キーンをほめたそうです。しかしキーンは上記回顧録の中で、当時の日本や東京の習俗への理解不足で誤訳をしてしまったと後悔。~「例えば、今川焼とは、言うまでもなく、その発祥が江戸時代にまでもさかのぼる大衆菓子のことだ。ところがそれを私は、陶器の一種だと勘ちがいしている」。

荷風さんは、この〝誤訳〟に気付いていたに違いない。しかし、この作品を深く愛して翻訳した外国人の姿勢は感じ取ってくれたはずだ。キーンはこうも回想して、荷風さんに会えたことはこの上ない好運だったと結んでいます。

もうお分かりでしょうか。キーンは「今戸焼」と「今川焼」を混同しているのです。〝誤訳〟だと思っている箇所は全然誤訳ではありません。原文で今戸焼の前に出てくる「・・・近所の菓子屋を探して土産を買い・・・」に囚われて、今戸焼も菓子類(≒今川焼)だったのでは・・・。後日、そんな風に誤解してしまったのではないでしょうか。

ちなみに『すみだ川』の中には、「菓子屋」「煎餅屋」「粟餅屋」「甘酒屋」「菓子折」「駄菓子」「飴売」などの用語は登場しますが、「今川焼」という言葉は一切出てきません。

〝向島〟に戻って、さんぽの仕上げ・・・

「ドナルド、あなたは間違っていないと思う・・・」~冒頭のコメントを心の中で復唱しながら、再び桜橋を渡ってすみだに戻りました。向島らしいエリアの一角で、今日のさんぽの仕上げをしましょう。

▲向島花街エリアの一角にある「江戸蕎麦 僖蕎(ききょう)」。入口ノレンの右側に見える「春夏冬中」のボードは、[秋ない中=商い(あきない)中]を意味します。

▲店内も、ゆったりとしてシックでモダンな雰囲気。2階には個室席もあります。2017年4月オープン。[江戸情緒を感じさせる地で、「粋」に拘り、東京の「モダン」を感じる新しい味わい・・・]~お店のPRコメントの一節ですが、その通りの雰囲気です。

▲まずは、生ビール(プレミアムモルツ・800円)で喉をうるおしました。

▲料理は、3種あるコースの中で一番お手軽な「言問(こととい)」(全6品・3,800円)に。こちら「八寸」だけでも、ビールが進むこと!

▲「造り」も、小ぶりながら4種盛りです。

▲次のお酒は日本酒に。ワイングラスで提供されるところが、洒落ています。こちら「彩来(さら)・純米吟醸」(グラス800円)は、埼玉県上尾市の蔵元です。

▲「季節の逸品」は、ごはんの上に野菜とウナギがあんかけで乗った温かい品。

▲「季節の天ぷら」「せいろ蕎麦」「本日の甘味」が最後に提供されます。自家製蕎麦と江戸伝統の辛めのかえし、揚げたての天ぷら、抹茶の香り高い甘味。大満足のシメとなりました。

店名「僖蕎」は、日本の伝統色「桔梗(ききょう)色」にちなみ、そこに「人を喜ばせる」場にある「蕎麦」という意味が込められているそうです。

今日のさんぽ を振り返って

隅田川の両岸、比較的近接したエリアを巡り、『すみだ川』に登場する舞台(の現在の姿)を辿りました。原文と英訳文を対比してみることで、ドナルド・キーンの「誤解」を思いがけず発見できたように思います。

この物語の〝狂言回し〟である俳諧師の蘿月。五十路に手が届く、(当時としては)老境の年回りです。それなりの資産家の跡取り息子だったが放蕩により勘当され、今は風流三昧に生きている。また、愛妻は芸妓出身。

『すみだ川』に描かれるのは、荷風さんが米仏に外遊する前の1902~1903年頃の光景や風物。約5年を経て帰国した後、「東京市中の街路は到る処旧観を失っていた」(後年の『すみだ川』復刻版刊行に際しての序文)と嘆きながら執筆した初版刊行が1909年。まだ29歳のときです。

荷風さんは蘿月に、ぼんやりと自身の〝未来予想(理想)図〟を託したのではないか。なんだかそんな感じがします。では、皆さんまたお会いしましょう・・・。

永井荷風のイラスト

お店情報

※営業時間・定休日は変更となる場合あり。来店前に電話等で確認してください。

Leap up coffee 東京都墨田区向島2-6-5 TEL:090-1908-2568 営業時間:(木曜~日曜)11:00~18:00 定休日:月曜・火曜・水曜
江戸蕎麦 僖蕎 東京都墨田区向島5-27-10 Sビル TEL:03-6658-8462 営業時間: (月曜~金曜) 11:30~14:30(LO. 14:00)、17:00~22:00(LO. 21:00) (土曜・日曜・祝日) 11:30~15:00(LO. 14:30)、17:00~22:00(LO. 21:00) 定休日:不定休

参考

筆者プロフィール

上野 慎一(うえの しんいち)
1957年生まれ。横浜市出身。1981年早稲田大学政治経済学部卒業。2015年にサラリーマンリタイア後、暮らしや経済に関するネット記事を執筆。「人生は片道きっぷの旅のようなもの」をモットーに、お城巡りや居酒屋巡りなど全国あちこちの旅を楽しんでいます。

TOPページへ戻る