【第41回】2026年5月

すみだから船橋、そして開設者の故郷へと。数奇な変転を経た建物とは?

かつて隅田川の河畔エリアにあったゴージャスな建物。明治期に勃興した財閥創始者が構えた別邸内にありました。今の現地にかつての面影はまったくありませんが、建物は何度かの移築を経て遠く新潟県のほうで保存されています。

かつては「墨堤」の風流な土地柄だった場所

まずは、その建物が最初に建てられた地に行ってみましょう。首都高速・向島入口のすぐ横です。古い倉庫建物を取り壊した跡地。温泉施設を建設する計画がありましたが取り止めとなり、代わってマンションを建設中です。

▲写真は、やや上空で西側から東側を眺めたもの。下端左右方向が、後述・かつての隅田川の流れに近いライン。写真右上部2列の白いフェンス辺りが、後述・銅像堀の流れに近いラインです。

ネット地図によっては、この地が「大倉喜八郎別邸跡(蔵春閣跡)」と表示されます。かつてあった建物やその開設者の名前は、こちらで分かりますね。しかし、現地に設置されていた解説板の姿は今や見当たりません。

大倉喜八郎(1837~1928)は、現在の新潟県新発田(しばた)市の出身。幕末に江戸に出て商才を発揮して成功をおさめ、明治維新後も業容を拡大。現在の大成建設、サッポロビール、日清オイリオグループほかさまざまな業種の企業設立に関与し、結びつきの強い一部の企業群で「大倉財閥」を形成しました。

大倉が、旗本・中野清茂(別名・硯翁、11代将軍徳川家斉の側近をつとめた)の屋敷跡に向島別邸を構え、その一角に建設(1912年)したのが「蔵春閣」。政財界や海外からのVIP客をもてなすための迎賓館でした。のどかで風流な立地は、そうしたニーズにふさわしかったのでしょう。

▲竣工間もない頃らしい古写真。建築ネットマガジン「BUNGA NET」のサイトから部分引用(元出典は、「建築工藝叢誌」(建築工芸協会、1912年7月刊)。

 [参考資料]
「BUNGA NET」~「「蔵春閣」が3度目の移築で大倉喜八郎の故郷へ、新発田市の建築巡りに新顔加わる」(2023年4月28日)
https://bunganet.tokyo/zousyunkaku/

かつてこの地の一角にレガッタ艇庫を構えていた東京経済大学も、大倉が創設した大倉高等商業学校が前身です。

▲2つの地図を見比べると、現在の首都高速六号線高架やその足元東側の辺りは、隅田川を埋め立てしている模様です。かつての大倉向島別邸は西側が隅田川、南側がその付随水路(銅像堀)に面する水辺立地。先ほどの古写真の蔵春閣は、隅田川に面して建っていたと思われます。

文学に「賞金」は、邪道だった(?)

永井荷風さんの随筆『寺じまの記』(1936年)は、浅草雷門からバスに乗って「玉の井」に出かけた際のもの。「大倉別邸前」バス停付近の記述もあり、辺りの墨堤では多くの別荘(別邸)や桜の木がない(なくなっている)と言及しています。

また、私小説的な作品『来訪者』(1944年)には、大倉喜八郎の名が登場。1900年頃にある文芸誌が大倉に懸賞小説募集への高額賞金提供を打診依頼したが、当時の作家や編集者から文士を侮辱するものだとこぞって非難された。そんなエピソードを紹介しています。

続いて、こうした気風が時代とともに変容。大正初め(1912年)には文士が原稿料の多寡を堂々と口にするようになり、関東大震災(1923年)頃には現代社会の職業の1つと認識されて原稿料で財を成す者もいると指摘。

かつて風光明媚だった墨堤の環境や様子の変化、そして大倉が文芸に金銭提供する構想を非難した文壇のその後の変容ぶり。明治末期から昭和期にかけての社会の移り変わりの一端に触れることができたような気分です。

その後、蔵春閣はどうなった?(その1)

蔵春閣は、関東大震災や太平洋戦争の空襲も乗り越えました。戦後は、占領軍将校用接待施設(慰安所)として一時接収され、「料亭大倉」などと呼ばれました。戦災で大きく焼失した「玉の井」の業者の一部が移転して始まった色町「鳩の街」に至近。そんな立地も関係していたのでしょうか。

その後、「船橋ヘルスセンター」運営会社に買い取られて建物は船橋へ移築(1959年)。高級中華料理「長安殿」の店舗に転用されましたが、ヘルスセンターは1977年に閉鎖。

同跡地に新たに建設(1981年)された大型ショッピングセンター等複合施設(現在の「ららぽーとTOKYO-BAY」)内では、1985年にオープンしたホテル付設の結婚式場・宴会場「喜翁閣」として利用されました(2006年閉鎖)。

▲ホテル付設の結婚式場・宴会場時代の写真。後方にホテル本体の建物が見えます。「日本観光@mytabi」のサイトから引用。

 [参考資料]
「日本観光@mytabi」~「千葉県観光@mytabi」~「蔵春閣(大倉別邸)」
https://chiba.mytabi.net/zoshunkaku-okura-villa.php

このホテルが2011年に閉業し、旧・蔵春閣建物は2012年に開設者ゆかりの大倉文化財団に寄贈されました。大倉喜八郎本邸跡地に長男の喜七郎が開設した虎ノ門「ホテルオークラ東京・本館」建替え時(2016~2019年)にその地への移築が検討されたものの、消防法の規制などにより実現しませんでした。

その後、蔵春閣はどうなった?(その2)

大倉喜八郎の故郷である新発田市に対して、大倉文化財団が移築工事費や経費一式を含めて寄贈することになり、移築先はJR・新発田駅にほど近い「東公園」(喜八郎ゆかりの地)に決定。2020年に着工して、2023年に全体完成・開館しました。

迎賓館、慰安所、高級中華料理店、結婚式場・宴会場と移ろいだ用途。名前もそれぞれの時期に〝改名〟されています。時代と場所の変転とともに、数奇な運命を歩んだことが実感されます。そして、晴れて「蔵春閣」に戻った今。その姿を是非見てみたくなり、新発田市の現地に出掛けました。

▲(アングルは違うものの)先出の向島時代古写真の雰囲気を感じさせる外観。敷地となった「東公園」も、もともとは大倉喜八郎が寄贈した土地です。

▲1階の食堂1(右側)と食堂2(中央)。格天井、シャンデリア、鴨居の装飾等々、和洋折衷の豪華絢爛さが伝わってきます。写真左側には、食堂から一段上がった和室空間(書斎)の姿も。

▲2階の大広間。1階食堂とはデザインの違う格天井が印象的。中央下部の横向き手すり箇所は「月見台」で、向島時代に筑波山から昇る月を眺め愛でたそう。手すり下に2つ見える富士山形の装飾、実は漁網がモチーフ。写真右側に等身大写真で立つ大倉喜八郎が自ら考案したようです。

▲1階から階段で昇った先に広がる2階広縁の解説板。大理石張りの洋風床では、隅田川とも縁の深い桜と都鳥が出迎えてくれる。そんな心憎くて洒落た演出がされていました。

▲現物を間近に見ると、大理石モザイク細工の精巧さが伝わってきます。

▲都鳥(ユリカモメ=東京都民の鳥)も、隅田川を飛び交い川面に浮かぶ姿が連想されるようです。

折角、新発田市まで来たので、大倉喜八郎ゆかりの地をあと2ヶ所巡ります。

▲JR・新発田駅から市の中心部に続く幹線道路沿いに建てられた碑。もともと大名主の商家だったようです。喜八郎の長男・喜七郎は新発田藩最後の藩主である溝口直正の娘と結婚して、大倉家は元藩主家とも縁戚になっています。

▲JR・新発田駅に向かって、東公園と反対側にある公園内。大倉喜八郎が創業した大倉製糸・新発田工場の跡地で、後方に見える県立新発田病院もその跡地に建てられたもの。東公園にあった喜八郎の胸像をよりゆかりが深い当地に移設し、周囲には関連する石碑等も設置されています。

今回のさんぽ を振り返って

駆け足でしたが、大倉喜八郎の事績の一端、そして彼がすみだの地に開設した豪華絢爛な迎賓館のその後の数奇な変転に触れることができました。

余談ですが、ある図書出版社のサイトで興味深い記事を発見。明治末期に創刊された(勤労)少年向け雑誌「実業少年」に、特集記事「当世実業家の息子づくし」(当時の著名実業家22組のプロフィールやエピソードなどを紹介)が組まれたと紹介しています。

その中で[大倉喜八郎氏長男 大倉喜七郎氏]とともに、[永井久一郎氏長男 永井壮吉氏]もノミネート。壮吉は荷風さんの本名です。父・久一郎は、中央官僚を足掛かりに立身出世した人物。荷風さんも、なんやかんやで当時の富裕エリート層の子弟だったことを再認識した次第です。では、皆さんまたお会いしましょう・・・。

永井荷風のイラスト

営業情報

※営業時間・定休日は変更となる場合あり。来店前に電話等で確認してください。

蔵春閣 新潟県新発田市諏訪町1-9-20(東公園内) TEL:0254-28-3255 見学時間:9:00~16:00 開館日:月曜~水曜、金曜~日曜 定休日:木曜(祝日の場合翌日)・年末年始

参考

筆者プロフィール

上野 慎一(うえの しんいち)
1957年生まれ。横浜市出身。1981年早稲田大学政治経済学部卒業。2015年にサラリーマンリタイア後、暮らしや経済に関するネット記事を執筆。「人生は片道きっぷの旅のようなもの」をモットーに、お城巡りや居酒屋巡りなど全国あちこちの旅を楽しんでいます。

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