「江東」も「墨田」も、両区の〝独占〟ではない(?)
墨田区内なのに、JR錦糸町駅南側エリアの地名は「江東橋」。ちなみに、大横川に架かる「江東橋」に由来するようですが。一方、【第18回】に登場した墨田工科高校(旧墨田工業高校)の所在地は江東区内。ともに隅田川の東側に位置する2区には、クロスオーバーするところがあるようです。
墨田区は、かつて南部の「本所区」と北部「向島区」に分かれていて、両区が合併して今の名前になったのは1947年のこと。同じ年に誕生した江東区も、以前の西部「深川区」と東部「城東区」が合併したものです。
江東区のホームページでは、隅田川の東に位置するという地理に加えて、「江」は深川、「東」は城東の意味も含んでいると解説。旧2区それぞれの顔も立てているようです。
[参考資料]
江東区ホームページ内「区名の由来」
https://www.city.koto.lg.jp/011501/kuse/profile/shokai/5365.html#:~:text
さんぽのスタートは「マッチ」から
「マッチ」と聞いても、ピンとこないかも。これで実際に火をつけるような日常生活のシーンも、今やほぼないかもしれません。そんなマッチが国産化された発祥地は、江東橋の一角にあったようです。
▲「東京都立両国高校・附属中学校」の敷地内北端部に建つ碑(この写真は、学校敷地外から撮影しています)。
18世紀末頃にヨーロッパで商品化されて順次進化してきたマッチ。日本では、金沢出身の清水誠が1876年に当地で「新燧社」として本格的な工場製造を開始しています。国産マッチや清水誠に関連する記念碑は、亀戸天神の境内にも建てられています。
そして、京葉道路(国道14号線)の江東橋周辺の歩道には、こんな風変わりなものが設置されています。
▲〝スクッ〟と立つ東京スカイツリーと背高な道路街灯。その下、車道際の歩道上に等間隔に立つポール群とそれらをヨコ向きに結ぶチェーン群が見えます。手前側(道路対面)で一部を大きく確認できますが、このポール何かに似ていませんか?
実は、マッチをデザインしたものなのです。道路沿いにある防護柵のうち、「ガードレール」はクルマが車線から逸脱することを防ぐもの。そして、上記のマッチ形ほか「ガードパイプ」は、歩行者が道路横断することを防止するため。そんな違いがあるようです。
▲何本も並んでいると、〝マッチらしさ〟がより実感できます。このデザインのガードパイプ、京葉道路の江東橋周辺などにだけ設置された〝レアもの〟なのです。
たまには、〝下を向いて歩こう〟もいいかも(?)
「♪上を向いて歩こう 涙がこぼれないように♪」。~今でも耳にする機会が少なくない昭和のヒットソング。視線は、タテ方向に真ん中から上です。しかし、視線を下に向けてみると、普段は気付かなかった発見があるかもしれません。
先ほどのガードパイプもその1つ。JR錦糸町駅の北側エリア(地名は「錦糸」)に行ってみると、こんな美しいガードパイプに出会えます。
▲JR錦糸町駅の北側・北斎通りの両側等に設置されたガードパイプ。
錦糸町(もとの地名は錦糸堀)の「錦糸」には[三味線や琴の糸を作る家が何軒かあったから]、[(東西に流れる)堀の水面が朝陽や夕陽に照らされて金の糸のようだったから]などの伝承があるようです。
[参考資料]
錦糸三和町会ホームページ内「錦糸町の名称の由来」
錦糸町のむかし | 錦糸三和町会
先ほどのマッチ形ともども、ユニークな形状が地元の歴史を伝えてくれています。ちなみに、一般的なガードパイプの一例は、こうした(味気のなさそうな)形状です。
北斎通りと大横川親水公園が交差する付近には、こんなユニークな光景も見られます。
▲道路の両側とも、北斎通りに近いところだけ錦糸形のガードパイプ。その先は、一般的な形状のものとなっています。こちらも、よほど注意して見ていない限り気付かないかもしれませんね。
永井荷風さんの〝乗り換えスポット〟でもあった錦糸町
錦糸町駅の南側エリアに戻りましょう。京葉道路と四ツ目通り(京葉道路よりも南側)には、かつて路面電車(都電)が走っていました。
四ツ目通りの東側は、もともと「城東電車」=「城東電気軌道」(1917年開業、再編を経て1942年に東京市電に吸収)の始発駅。京葉道路添いに東側・小松川エリアに向かう路線(さらに、荒川放水路を越えた先にも路線を展開)と、途中で南下して砂町を経て洲崎に至る路線がありました。
当時、工業化が進んでいるとはいえのどかな風景もまだまだ残るこうした沿線エリアに、永井荷風さんが好んで足を運んだ時期がありました。洲崎駅や錦糸町(錦糸堀)駅で、東京市電(のちの都電)と城東電車を乗り換えるルートも多用したようです。
かつての城東電車の始発駅があったエリアの一角に、レトロな外観の喫茶店を発見しました。
▲何ともいえない懐かしさを感じさせる喫茶店「ニット」の外観。店名の由来は、かつてこの地でニット生地(うちメリヤス地)のセーターを製造していたから。喫茶店として再出発してから60年が経過。「ものづくりのまち・すみだ」の名残りが、店名に託されてきていたのです。
▲内部の様子。(年季は入っていますが)ふかふかのソファ椅子、たくさんの植栽、少し暗めの照明など。レトロで落ち着いた空間です。この雰囲気を求めて、ドラマのロケなどに使われたこともあるそうです。レジ横の壁面には、来店した芸能人などのサイン色紙がたくさん掲示されています。
▲「コーヒー・ホット」(520円)をオーダー。いろいろな食事とのセットや、「モーニング・サービス」(12時まで)もおトクです。じっくり焼き上げる名物の人気メニュー「ホットケーキ」は、次回の楽しみにとっておきます。
「置いてけ堀」伝説スポットは、1つだけではない
「喫茶ニット」を出てすぐ南側には「錦糸堀公園」があります。その一角に、こんな像がありました。
▲可愛らしいカッパ(河童)の像ですが、やっていたことはいたずらのようです。背後の解説版を拡大してみましょう。
▲【第30回】のさんぽ、両国駅北側の日大一中・一高の敷地に立つ解説板でも「置いてけ堀」のエピソードが妖怪(幽霊)のような浮世絵とともに掲示されていました。錦糸堀公園の解説では、その〝犯人〟は河童だそうです。
▲錦糸堀公園周辺の歩道のあちこちに、こんなユーモラスなプレートが埋め込まれています。こちらも、下を向いていないと気付かないかも。
「おいてけ堀」の場所には諸説があり、江東区内にも碑が設置されたスポットがあります。地元で昔から広く言い伝えられてきたことが分かりますね。錦糸堀公園内や付近には、こんなガードパイプもありました。
▲先ほどの「錦糸ガードパイプ」のエリア内外の境目と同様に、道路の一部だけユニークなガードポール(ヨコ方向のチェーンなどは設置されず)になっています。どこか〝タイ焼き〟が思い浮かぶような可愛らしいデザイン。きっと、釣り人が盗られた釣果のサカナがモチーフなのでしょう。
なお、四ツ目通りの西側、「ウインズ錦糸町」(場外馬券売り場)の南エリアの一角には、馬の頭部のオブジェを上に置いたガードポールが(少しだけですが)見られます。〝馬つながり〟でしょうか。
今日のシメは、「フードコート」で!
今日は、とことん錦糸町で。仕上げは、「錦糸町PARCO(パルコ)」にきました。
▲こちらの1階の一角には、フードコート「すみだ Food Hall」があります。和食・洋食・ラーメン・ハンバーガーほか、区内の有名店など多彩な顔ぶれ7店が営業しています。
▲フードコートの一角には、お酒の販売と角打ちを扱う「IMADEYA SUMIDA」が。千葉発祥の酒問屋が、当地のほか清澄白河・銀座・軽井沢・名古屋などにも店舗展開しています。
▲注文口と受け渡し口の様子。「自家樽熟成ハイボール」の看板と各樽に興味をそそられます。
▲まずは、ビールで喉をうるおします。「別格アサヒスーパードライ」と「おつまみセット(柿の種とくん製ピーナッツ+サラミ2種8枚)」のセット(1,000円)にしました。
▲自家樽熟成ハイボールは、お店のおススメ「芋焼酎 宝山 白豊印」(800円)にしました。つまみは「煮干しセット(ほたるいか&甘えび)」(450円)を追加。
▲当店のつまみは〝乾きもの〟主体ですが、隣接する別店の品も頼めるところがフードコートのメリット。「レストランカタヤマ錦糸町グリル」の「フレンチポテト」(Mサイズ 418円)を。揚げたてで、ボリュームたっぷりでした。
▲次はロゼワイン? いえ、日本酒の古酒「afs(アフス)橘」(700円)です。期間限定品。外房・大原の「木戸泉酒造」が醸す長期熟成酒は、紹興酒のような口当たりでした。
フードコートで晩酌。たまにはオツなものでした。フードコート内の他店の料理をいろいろとチョイスして組み合わせれば、通常にひと店舗で飲むよりも楽しみが広がるかも。そんな気がしました。
今日のさんぽ を振り返って
江(隅田川)でも、城(江戸城)でも、それぞれの東側というのはかなり広大なエリアです。同じような名称や伝説(昔ばなし)が今の墨田区と江東区の両方にまたがって存在していても、不自然さはあまりないように思われます。
しかし、永井荷風さんは異論あり。代表作日記文学『断腸亭日乗』1932年12月19日の記述。南砂町辺りの散歩で商店看板の住所記載を見て、「城東区」(その年に発足した)の名に疑問を呈します。~「昔本所深川の地を江東と呼びしは聞えたる事なり。それより更に東なる南葛飾の地を城の東といふはそもそも何の意なるや」。
続いて、鉄道会社が「城東」だからといってこれを区名にまで採用するのは軽率だろう。荷風さんはこのように指摘。今でも地名や自治体の名前を新たに決める際にさまざまな意見や異論が出てくる状況が、100年近く前にもあったのだ。そんなことが偲ばれます。では、皆さんまたお会いしましょう・・・。
