まずは、築地からスタート
芥川龍之介の生誕地からスタートします。地下鉄日比谷線・築地駅から東側の隅田川方向へ。「築地川公園」のすぐ先、聖路加国際大学の敷地の南西端近くに、こんな碑と解説板がありました。
▲「浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)邸跡」の碑と解説板。解説板を拡大してみましょう。
▲時代劇などでも有名な『忠臣蔵』。そのモチーフとされる、実際に起きた「赤穂事件」。1701年3月の発端事件、そして翌1702年12月の旧家臣による仇討ち事件の経過が解説されています。敷地面積3万㎡近いこの邸宅(上屋敷)の広大さは、後ほど地図でご案内します。
こちらから北上して大学敷地の角を東側に曲がると、歩道上に解説板がありました。
▲聖路加国際大学や隣接する聖路加国際病院などが建ち並ぶこの付近に、生家の営む牧場があったようです。母親の精神疾患のため生後7ヶ月で本所の母方実家の芥川家に引き取られ、その後養子となったため「芥川」姓となりました。
築地も〝新開地〟だった
すみだの本所エリアの発展は、明暦の大火(1657年)で江戸の町の大半が焼失したことがきっかけ。埋め立てや市街地整備が本格化して、武家屋敷や町人が移転して発展した。~こんな歴史を以前に何度か説明しました。
そしてこちら築地にも、似たような経緯があります。明暦の大火で焼失した「西本願寺別院」が移転(現在の築地本願寺)。寺町のように形成された後、江戸時代末期以降は幕府の海軍軍事拠点、そして開国後は外国人居留地などとして発展しました。そんな歴史が、街の景色にも残されています。
▲「カトリック築地教会聖堂」は、小ぶりながらギリシャ神殿のような外観。異国情緒を演出してくれますが、実はモルタル塗りで仕上げた木造建築です。関東大震災(1923年)で焼失して、1927年に再建されました。
他の開港地に比べて、海外の宣教師・医師・教師など知識人が数多く来訪した築地。今も当地にある聖路加の病院や大学。そして、慶應義塾、立教学院・立教女学院、女子学院、暁星学園など各学校発祥地の碑も多数残されています。
辺りをぐるっと歩いただけで、海外の知識人たちが明治期のスタートに貢献した文明の活気を感じることができました。
ここで、先ほどの赤穂藩上屋敷「浅野内匠頭邸」跡地のスケール感を次の地図でご確認ください。
▲江戸時代の大名屋敷の広大さが、改めて実感できます。ちなみに、明治末期の地図(1909年測図)では、聖路加国際大学の敷地は「立教大学」と表示されています。移転前の姿でしょう。
次は、芥川龍之介が育ったエリアへ
新富町駅から地下鉄の有楽町線と都営大江戸線を乗り継ぐと、20分足らずで地下鉄・両国駅に着きました。芥川龍之介が育ったのは、この辺りのエリア。次のスポットに行く前に、ひと休みしましょう。
▲京葉道路(国道14号線)に面して、少し奥まったところにある「& Ryogoku」(アンドリョウゴク)。ブランコやグリーンがおしゃれな雰囲気を醸しています。入口手前のバスケットに置かれたブーケ(花束)は売り物です。
▲細長い店内も、シンプルでおしゃれなムード。テーブル席2卓の奥がベンチ席で、その対面がカフェ厨房。写真右側の壁面はコーヒーのカップ・ドリッパー、豆、花瓶等を販売する棚です。写真左下の後方(写っていませんが)は、ジェラート提供スペースとなっています。
▲ジェラート「ミルクの花」(450円)と「エスプレッソ」(400円)をオーダーしました。
“両国の10坪デパート”を標榜するこのお店。ユニークなのは、コーヒー・ジェラート・グリーンの3店が別々に経営されている点。しかもコーヒー店は、日によって出店者が変わるそうです。3つのジャンルがうまく融合して、トータルの雰囲気を高めているような気がしました。
お店を出て京葉道路を西側に少し進みます。途中で南側に曲がると「両国小学校」に到着。敷地の一角にあったのは、こちらです。
▲「芥川龍之介 文学碑」と解説板。解説板を拡大してみましょう。
▲「龍之介」はペンネームだと誤解されることもありますが、実は本名。生誕時点が〝トリプルドラゴン〟だったのですね。当時は、小学校も幼稚園も回向院の隣接地にあったようです。
芥川の「生育地」(養家跡)は、次回に訪れることにします。今日は、すぐ近くの別のスポットに行ってみましょう。
事件の両当事者の拠点に縁があった
両国小学校から歩いてすぐ到着したのは、「吉良邸跡」(本所松坂町公園)。【第10回】でもさんぽしました。
▲武家屋敷跡風のなまこ壁で囲まれていますが、第一印象は、その狭さ。実は広大な屋敷跡のほんの一部だけ、地元有志の努力によって公園として整備保存されたものです。公園内には吉良上野介の座像が設置され、こんな解説板もありました。
▲実際の吉良邸の敷地は約8,400㎡(東西 約132m、南北 約62m)あり、公園部分は、全体の86分の1に過ぎないことが分かります。しかし、ここはまさに赤穂浪士による討ち入りの〝事件現場〟です。
ここで芥川龍之介の生誕地を思い出してください。赤穂藩上屋敷「浅野内匠頭邸」跡地でした。そして、幼少青年期を過ごした生育地のすぐ近くにあるのが、「吉良邸跡」。芥川が意識していたかどうか分かりませんが、不思議な縁を感じます。
ところで、筆者の手元にある古い文庫本(芥川の作品集)の最初に収められているのが『或日の大石内蔵助』(1917年)。吉良邸討ち入り後に赤穂浪士たちは大名4家に分散して預けられ、幕府の処分を待つことになります。そんなある日の大石の心理を描いた小作です。
世間からの(過剰で誤解ぎみな)いろいろな賞賛や反響。それを知った大石の心中で、仇討ちの本懐を遂げた高揚感にどんどん亀裂が入っていきます。
仇討ちして本当によかったのか。自分は果たして忠義な家臣か。遊里での享楽の日々はカムフラージュなどではなく、単に楽しんでいただけではないのか。~大石の内心の〝揺らぎ〟や生身の人間くささが、淡々と展開されていきます。
赤穂事件の両当事者の拠点に、幼・少・青の日々が包摂されている芥川。そんな彼ならではの視点が反映された作品かもしれない。そんな思いがしました。
キーワード「百本杭」はどこにあった?
今回の冒頭で説明した芥川と永井荷風さんの関係。そして、2人には〝隅田川愛〟が共通しています。少年期から親しんだ隅田川に対する親近感や追憶が、その作品群にしばしば登場するのです。
荷風さんは随筆『夏の町』(1910年)で、少年時代に隅田川で水泳を覚えた思い出を懐かしそうに述べています。続いて、旧制中学の同級生たちとボート遊びで立ち寄った沿岸スポットの1つとして「本所の百本杭」を挙げています。
そして、芥川の随筆『大川の水』(1912年)。~「・・・黒塀の多い横網の小路をぬけると、すぐあの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出るのである。幼い時から、中学を卒業するまで、自分はほとんど毎日のように、あの川を見た」。
2人とも若き日の実体験・思い出として、深く記憶に留められたスポットのようです。今だとどの辺りなのか。JR両国駅と隅田川の間の一角に行ってみると、こんな解説板がありました。
▲ホテルの敷地に立てられた解説板。今の現地は、総武線鉄橋辺りのようです。隅田川の急流から土手を保護するため岸辺に打たれた、たくさんの杭。添えられた浮世絵(明治期)から当時の様子が伝わってきます。
では、その現地に行ってみましょう。
▲総武線鉄橋の南側から見た隅田川。写真では中央右端部で川が陸地側に湾曲しているように見えます。しかし明治末期の地図で確認すると、今の鉄橋南北周辺の川岸の広範囲が陸地側へ大きくえぐれていました。この窪んだスポットに流れ込む急流を防ぐため、多数の杭が打ち込まれたようです。
護岸沿いに南下して「両国橋」で上に出ると、橋の東詰・南側に立つモニュメント群の中に「両国橋と百本杭」解説板がありました。
▲解説板内の古写真です。こちらの解説板によると、1930年に荒川放水路が完成するまでは荒川・中川・綾瀬川も隅田川に流入して水量が多く、湾曲のきつい(陸地側にえぐれている)エリアは急流による浸食がひどかった模様。古写真に見える杭群の姿は、先ほどの浮世絵より一層リアルです。
芥川と荷風さんが、ほぼ同時期に著述して往時を懐かしんだ百本杭。明治末期から始まった護岸工事で抜かれて姿を消しました。しかし夕暮れの川辺にたたずむと、百本杭で特徴づけられたかつての隅田川の風情が脳裏に思い浮かんでくる。そんな気がしました。
さんぽのシメは、「すみだモダン」で!
今日のさんぽのシメは、地下鉄・両国駅にも近い「蕎肆 穂乃香」(きょうし ほのか)にしました。
▲細長の窓、シンプルなノレン、壁に埋め込まれたサイン看板。いかにも〝今風〟な蕎麦店です。見なれない「肆」の字ですが(品物を)連ねる・並べる、つまり「店」のこと。蕎麦(そば)の「蕎」と合わせて、トータルの意味が分かります。
▲外観同様にとてもモダンな店内は、竹林をイメージしたデザイン。BGMに流れるジャズを聴きながら、蕎麦やお酒を楽しめます。かつて「福井屋」だった蕎麦店を三代目がテイストを大きくリニューアルして、2008年にオープンしました。
▲まずは、生ビール「アサヒ熟選」(700円)で喉をうるおします。つまみは、こちら「稚鮎の天ぷら」(850円)のほかに「生ゆば」(700円)をオーダー。お通し(クリームチーズの酒盗添えとモロきゅうの2品)も、なかなかの味でした。
▲次のお酒は、「おすすめ飲み比べ」(1,200円)に。写真左から「特別純米 小左衛門」(岐阜県)、「純米生原酒 蛍舟」(島根県)、「純米吟醸 上喜元」(山形県)。飲みながら〝旅〟をしているような気分にさせてくれます。
▲仕上げは、当店の名物メニュー「北斎せいろ」(1,550円)。温かいつけ汁は、鴨肉、ししとう、なす、ねぎ、花麩など具だくさん。そして自家製の大きなつくねが富士山、藍色の器が海の波を表現しているそうで、まさに葛飾北斎「富嶽三十六景~神奈川沖浪裏」の世界でした。
すみだの魅力を再発掘するため、区内の付加価値の高い商品や飲食店メニューをブランド認定する「すみだモダン」。北斎せいろは2017年認証を受けています。〝今風〟のモダンさに満ちたお店ですが、しっかりと伝統や技術に裏打ちされていることが実感できました。
今日のさんぽ を振り返って
79歳まで長生きした永井荷風さん。一方、35歳で早世(服毒自殺)した芥川龍之介。その点は対照的ですが、2人とも少年期から親しんだのが隅田川。川への親近感や追憶が、それぞれの作品群の根底の1つになっているところは共通していました。
次回は芥川の生育地を手始めに、2人と関わりのある別の文豪たちとの軌跡なども辿りながら、さんぽを続けたいと思います。では、皆さんまたお会いしましょう・・・。
