鐘ヶ淵駅からスタート
今回のスポットは、「隅田川関屋の里」。東武スカイツリーライン・鐘ヶ淵駅からスタートします。
駅前のコンビニで飲み物をゲットしておきましょう。
駅から北西に進んで鐘ヶ淵陸橋(「陸橋」といっても、幹線道路の墨堤通りが地下を通過しています)の交差点を渡ってすぐの歩道上に、解説板があります。
画面の下のほうが足立区側で、土手の右側が隅田川の流域。解説板のある堤通2丁目は、土手のかなり先(画面上端の朝もやの辺り)だろう。そんなことが推測されます。
「関屋の里」は、ここではない?
この画面の土手は、かつての「掃部(かもん)堤」。江戸時代初期に周辺の湿地帯を開墾・開発した石出吉胤掃部亮の築造した堤防で、今は墨堤通りとなっています。
江戸時代末期に出版された「絵本江戸土産」(江戸各所の名所などを案内する)に「関屋の里」のページがあり、場所は「木母寺より十町ばかり東北にあたれり」と説明されています。木母寺はかつて、墨堤通り沿い(榎本武揚像のある辺り)にありました。
距離の1町は約109m。元の位置から東北方向に1.1km(10町)くらいのエリアが「関屋の里」ということでしょうか。実際に行ってみましょう。
「関屋の里」は、ここ?(その1)
墨堤通りを北側に向かって歩いて18分くらい。そこは、東武スカイツリーライン・牛田駅と京成本線・京成関屋駅が近接するエリアです。
ここで、次の地図をご覧ください。
榎本武揚像から道路距離で1.4km程度、方角は「北北西」。江戸時代の〝ざっくりさ〟を考慮すれば、「木母寺より十町ばかり東北」とだいたい一致するでしょう。京成線の駅名も「関屋」。そして牛田駅に隣接する公園には、あの絵がタイル画やデザインマンホール上で再現されています。
「関屋の里」は、ここ?(その2)
ところで、先程の地図の左側上部を見てください。赤色の星印は「千住仲町公園」ですが、その一角にこんな解説板(碑)がありました。
解説部分を拡大してみましょう。
同じ墨堤通り沿いとはいえ、墨田区と足立区のかなり離れたポイントに同じ絵を掲載。少々不思議ですね。参考までに、足立区のホームページの解説を掲示しておきます。
[参考資料]
足立区ホームページ内「隅田川関屋の里 富嶽三十六景観」~「隅田川関屋の里 北斎が描いた場所はここだ!」
https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/2017hugakusannjyuurokkei.html
「富嶽三十六景」が全46景あると説明されていますが、これはその通り。当時の人気に応えて「裏富士」といわれる10作を加えた46図が伝わっているのです。
この足立区ホームページの末尾に掲載されている「関屋の里」の想定範囲図を引用させていただき、拡大して再掲しておきます。
この地図でかなり広範なエリア(ピンク色)が「関屋の里」と示されています。先程の今の地図で示した2つの「隅田川関屋の里」解説板所在地がともに(ギリギリで)収まるようですが・・・。
画面上の「関屋の里」は、なかった(?)
結局、葛飾北斎「隅田川関屋の里」の描画スポットはどこだったのか?画面右端の「高札場」にこだわると、当時「掃部宿」の外れだった千住仲町公園辺りになるかもしれません。
ここで留意したいのは、北斎の作品には「誇張」・「デフォルメ」・「切り貼り」などで構図されたものが少なくないこと。新千円札の裏面「神奈川沖波裏」も、まさにそうでしょう。
宿場を通過したばかりという緊張感を出すため、敢えて高札場を〝チラ見せ〟する。隅田川が大きく湾曲する姿を組み込んで〝ヨコからタテ〟へ変化する構図の立体感も演出。さらに、朝焼けの富士山や手前の朝もやで時間帯を表現した。
私見ですが、実際のピンポイントスポットは、そもそもなかった〟映画撮影でいろいろなロケ場所のシーンを組み合わせて、あたかも1つのスポットのように演出する。そんなやり方を、北斎は先取りしていたのかもしれません。
スタート地点の鐘ヶ淵駅方面に戻ることにしましょう。途中、隅田川が大きく湾曲する手前の沿岸でこんな風景に出会いました。
「荒川放水路」で分断されたのは、「中川」だけではなかった
綾瀬橋(旧綾瀬川)を通過。周辺の墨堤通りは、実はかつての掃部堤ではありません。先程の足立区ホームページから引用の「関屋の里」ピンク色エリアを詳しくご覧ください。掃部堤は、今の東武スカイツリーライン・堀切駅付近まで大きく迂回しています。隅田川に合流する綾瀬川の河口を避けたからです。
永井荷風さんの随筆『放水路』(1936年)にこんな記述があります。~「ここに水門が築かれて、放水路の水は、短い掘割によって隅田川に通じている。わたくしはこの掘割が綾瀬川の名残りではないかと思っている」。
中川が荒川放水路の開削で分断されて、周辺の人びとの暮らしも放水路の両岸に分かたれた。【第16回】でそんな話題に触れましたが、少し上流の綾瀬川も同じように分断されていた。90年近くも前の荷風さんの視線ともシンクロしながら、そんな歴史を再認識できた思いでした。
さんぽのシメは、スタート地点で
「関屋の里」のある意味〝広大さ〟を実感しながら、スタート地点に戻りました。鐘ヶ淵駅西口のほぼ駅前に位置する「CAFE ぷろーすと」で晩酌して帰ろうと思います。
まずは、おトクなセットを注文しました。
多彩な食事メニューから、こちらを選んでシメにしました。
ホテル出身のオーナーシェフと奥様。老夫婦の営むお店は、開店して8年。飲食店がそれほど多くない駅西口エリアの中で、喫茶、食事、そしてお酒。憩いとうるおいを提供してくれる空間でした。
今日のさんぽ を振り返って
葛飾北斎「隅田川関屋の里」。その地は、今ではどこなのか。そもそもかなり広大なエリアの中でいろいろな説もあるのだから、ピンポイントに特定はできない。そんな結論かもしれません。
江戸時代から周辺の雰囲気も大きく変わり、また明治期以降の「荒川放水路」開削によって、かつての「墨堤」も鉄道線路もそして地域の人々の生活も、その姿が変容していった。変わらずに辺りを大きく湾曲しながら流れる隅田川が、〝歴史の証人〟のようにも思えました。では、皆さんまたお会いしましょう・・・。